形容できない孤独の中で生きるということ
NHKの大アマゾンシリーズが大好きなのです。
最近放送された「未知のイゾラド 最後のひとり」の録画を見たので、その感想を記したい。
あらすじ
あらすじはNHKのHPで見た方が早いんだけど、
アマゾンには未接触部族(イゾラド)と呼ばれる人たちが、何部族かいる。
その中でたった一人だけ残った男を追ったドキュメンタリーです。
感想
世界で誰とも言葉をできないって、どんな気持ちなんだろうか。
「孤独」を表す言葉があれば、これが孤独だと思うことができるかもしれない。でも、孤独という言葉がない中で一人なのだとしたら、それはどのような気持ちなんだろうか。
彼らの中に宗教はあったのだろうか。死生観はどうなっていたのだろうか。魂を信じていたのか。それも分からない中では、誰もアウラの悲しみにも憤りにも苦しみにも寄り添うことができない。ノンバーバルコミュニケーションを用いても、おそらく100分の1も理解できないのではないか。
人間の表情は、世界のどこでも共通したもの(日本人の怒りの表情が、エスキモーにとって喜びの表情だということはない、みたいな)だと言ったのはエクマン博士だったと思う。だから、アウラの表情からある程度の感情は類推できるかもしれない。でも、それ以上は分からない。共感ができない。そんなのって、孤独という言葉に収まらない気持ちになると思う。
アウラたちに何があったのか、誰にも分からない。それに彼は伝えたいとは思っていないのかもしれない。
でも、もし伝えたいと思っていたなら?
伝えないと魂の行き場がなくなるという宗教を持っているのだとしたら?
死の際にはある儀式をしないといけないという文化を持っているのだとしたら?
それすらも分からないけど、もしそうだとしたら、アウラは彼の信念を貫けないことになるのではないか。それは肉体の苦しみよりも辛いことなのではないか。
わからないけど。
言葉の外側で生きざるをえないというのは、外界の全ての刺激をフィルターなしで受けるということなんじゃないかと思う。言葉を使うことは物事に輪郭をつけるということ。だから、その範囲内において人は理解することができて、精神が破綻しないで済んでいると思う。
でも、言葉がなければ輪郭をつけずに物事と向かい合わないといけない。こんな恐ろしいことってある?
言葉を持っていても、それを共有できる人がいなければ、その言葉を信頼できなくなって来るんじゃないだろうか。だから、アウラは自分の言葉で話し続けてるんじゃないだろうか。
分からないけど。